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1日目 朝の食卓

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朝起きると珍しくレイスが起きていた。眠気の宿る状態で食卓につく。レイスは心なしか浮き足立った様子だ。エプロンを着用し皿を手にフィルの元へ近寄ってくる。

「おはよう!マイハニー。朝ごはんを作ってきたよ」

その言葉にフィルの眉が潜む。

「誰がマイハニーだふざけるな」

冷静な否定。暗い声でフィルは吐き捨てる。レイスは少しだけ残念そうな顔をする。

「はい!朝ごはん!」

レイスは作った食事をテーブルに置いた。よく分からない葉っぱと黄色い花が添えられた雑草臭いサラダだった。

「なんだこれは」

思わず呟いた。

「サラダだよ。うまく作れたなあ」

フィルは葉っぱの塊をまじまじと見る。触る気も起きない。

「これ、どこから拾ってきた?」

「外で生えてた葉っぱを使ったオーガニックなサラダだよ!タンポポがたくさん生えてたから」

フィルの表情が凍りつき、その目がレイスをじろりと見る。目は硬直し感情が読めないが他者を軽蔑していることだけは分かった。

「捨ててこい」

「えっ!」

「こんなもの食えるか。元あった場所に戻してこい」

「そんな……一生懸命作ったのに」

レイスは思わず涙ぐむ。手にはタンポポが盛られた皿を持っている。救いの手を願う目でフィルを見つめるがフィルは圧力を持った目でレイスを見ている。

「う、ううっ」

レイスは渋々、皿に盛られたタンポポをゴミ袋に入れた。目に見えてしょげている。背中は猫背に曲がり伏し目がちにテーブルについた。

 

フィルは戸棚からシリアルを取り出し新しい皿に盛っている。恨めしそうにレイスはそれを見る。ただ仲良くなりたかった。その一心で食事を作ったのに冷たくあしらわれてしまった。

「フィルのいじわる」

小さく呟いたがフィルは相手にしなかった。

プロローグ

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それは唐突な事件だった。女が自宅を出る数分前、突如庭に漆黒の門が出現した。それはチリチリという焼け付いたような光の指紋を表面に宿し、今にも動き出しそうな存在感と生命力を放っていた。どくどくと鼓動しながらその門は内側から黒い塊を孕み、外側へと生み出した。黒い血を吐き出すようにそれは内側の体内から、色鮮やかな外側の世界へと歩み出る。

 

女はただそれを見ていた。目の前で広がる異常現象をただ眺めることしかできなかった。異形の生物がこの世に生まれ落ち、その目がこちらを見る。人ならざる褐色の肌、木の表面のようなガサガサの肌。真っ黒なローブを覆い下半身は包帯で固定されていた。異形の怪物に異様な姿。

 

怪物はこちらを見るとその目に希望を宿した。まるではじめて見たものを親と認識する雛鳥のようだった。

「あ、あ」

その場に立ち尽くしたまま言葉にならない声で女を見つめ続ける怪物。そしてその体は崩れ落ち膝をついた。女は呆然としていた。こちらを見つめる怪物をただ見返していた。

怪物はこの世に生まれ落ちたことを認識していた。そして目の前にいる女が自分の世話をするのに最も適していることを認識していた。異界から放り出された彼にとって女の存在はかけがえのないほど重要だったのだ。自分の転生を見届けた女に手を伸ばす。門はすでに消失していた。

 

女は怪物を見、なんとなく思った。この怪物を世話しなければ。それは何者かの意思によって女の頭に強烈に焼き付けられていた。微睡みの中、意思のない状態で体だけ動くようにその怪物に手を差し伸べたのだった。怪物のそばに歩み寄り、その肩に手を置いた。

「大丈夫?」

自然と言葉が出た。無意識の行動。

「うん」

怪物は頷き女を見る。

「あなたの名は?」

「フィリッパ」

それは彼女に与えられた仮の名。もやは真実の名なのかそうでないのかもわからない。

「フィルって呼んでもいい?」

「いいよ」

怪物は健気な目で女を見る。生まれたての赤ん坊のようだった。頭から泥のマスクを被っているのだろう。表情は分からなかった。

「ぼくはレイスって言うんだ」

「レイス」

フィルは反復する。

「とりあえず立ちなよ。家の中に入ろう」

ここにいては通行人に怪しまれてしまう。

「一緒に歩いて!」

レイスはわがままを言った。

「はぁ?歩くくらい一人でできるだろ!?勝手についてこいよ!」

フィルはレイスを置いて家の中に戻ろうとする。レイスはゆっくり立ち上がるとフィルを見つめていた。

「歩けないよー!」

レイスは子供のように文句を言った。

「いや立てるだろ。一人で歩けよ」

「ぼくみたいな怪物が歩いたら目立つでしょ!一緒に歩いてよ!」

庭先で文句を言いながら立ち尽くす長身の男。異形の見た目といい巨大な身長といい存在感は群を抜いていた。フィルは目立ちたくなくてしぶしぶ庭に戻った。

「今日だけだからな」

レイスの隣に立ち、歩を進める。だがレイスは動かなかった。

「なんだよ。歩けよ」

振り返りレイスを見る。

「手をつないで」

「はぁ!?」

思わず変な声が出た。わがままにもほどがある。

「いやだよ!手繋がなくたっていいじゃん。しかも君ちょっと汚いし」

その瞬間レイスがひどく落ち込むのが伝わった。レイスから発せられる悲しみ。周囲の空気を覆っていく。

「ぼくは汚いの……」

明らかにしょげている。

「ごめん。汚くないよ。手繋ごうか」

レイスの悲しげな様子にさすがに罪悪感が湧いた。垂れ下がったレイスの大きな手を掴む。

「やった!!」

先ほどまでと打って変わってガッツポーズをするレイス。フィルは少しイラっとした。

 

フィルの手を取り軽やかな足取りで家に戻っていくレイス。鼻歌でも歌いそうな勢いだった。

「わーーここがぼくの家かあ」

お前の家じゃない。と思わず言いたくなったが謎の力によって阻まれた。神がかり的な何かによってこの怪物の世話をする事が義務付けられている。フィルはそう感じていた。

「ちょっと待てよ。お前土足だろ?足を洗えよ」

「洗って!」

厚かましいな、とフィルは思う。フィルはレイスを連れて浴室に向かった。

「自分はお前の足なんて洗わないからここで自分で洗えよ。あとお前が汚した床も綺麗に拭いておくんだぞ。雑巾はここ」

「分かりました!」

レイスは驚くほど素直に従った。

 

 

しばし落ち着いてから二人は食卓で向かい合った。レイスはフィルの顔をじっと見ている。じっとこちらを見つめるレイスを訝しげな顔で見ていた。

「レイスくんはどこからきたんだい?」

「霧の世界」

レイスは即答する。

「神様がね。ぼくの願いを叶えてくれたの。第三の人生を別の世界で生かせてもらえる」

「そうなんだ」

「ぼくの保護者は女性で優しい人がいいっていったらここを選んでくれた」

迷惑だな。とフィルは思った。レイスは顔を背けるとチラチラとフィルを見る。

「えへへ。綺麗な人だなあ」

勿論フィルはレイスが思うほど美人と言うわけではない。だが世間と隔絶されたレイスにとってフィルは美人以外の何者でもなかった。そしてそれ以上に彼女の寛容さがレイスには変えがたいほど欲したものだった。殺人者を受け入れてくれる人間などありはしないのだから。

「そうか、君は殺人鬼だったんだな」

「うん。でももう殺すのはイヤだ」

フィルから見たレイスは完全な怪物だ。人間の姿ではない。人殺しという抵抗感がさほどないのは人ならざる見た目だからかもしれない。

「ところでレイスくん」 

「はい!何ですか!?」

レイスはうきうきとしながら元気よく答えた。

「お風呂に入ろうか?」

「えっ!」

レイスは全身の毛を逆立てた。

 

 

狭い脱衣所でその男は全身を強張って抵抗していた。それを必死に押し入れようとする女がいる。

「いやだいやだいやだ!お風呂なんて入りたくない!!」

「うるせえ!さっさと入れ!汚えんだよお前!」

踏ん張るレイスの背中を思い切り蹴り、浴室に入れた。急いで戸を閉め鍵をかける。

「うわああ!なんて酷いことを!まだ女の人に裸も見たことがないのに!」

「うるせえ!お前が裸になるんだよ!」

フィルはシャワーでレイスにお湯をかけるとローブを引っ張って剥ぎ取った。古びたレイスの衣類が桶に入れられる。

「いやああ!痴漢!変態!」

「あーー!もううるさいなあ!そんな汚い格好で家ウロウロされるの嫌なんだよ!ほら!ズボンも脱げ!」

「あ、そこはやめて、いやーーーー!」

レイスは半笑いで抵抗したが包帯はするするとほどけた。フィルはなるべく見ないようにしながらレイスにお湯をかけた。スポンジに石鹸をつけて泡だてワシャワシャと洗う。顔のマスクはお湯で剥がれ落ちていた。レイスの肌の汚れが落ち始め、表面が綺麗になっていく。腕についていた血と泥の汚れも擦っているうちの洗い落ちた。レイスの逞しい太い腕は本来の肌の色を晒している。広く逞しい肩、固い胸。綺麗に洗うとそれは立派な成人男性のものであった。そんなことを考えながら洗っていると上半身はすっかり綺麗になった。

「はあ、疲れた。ほら残りは自分で洗えよ」

「え!下も洗ってよ!せっかくなんだから!」

その言葉にフィルの顔が青ざめる。

「ふざけるなよ!変態!絶対嫌だ!」

レイスは不満そうにスポンジを受け取った。

「じゃあ、着替えとってくるから。はぁこっちまで濡れちゃったよ」

その言葉に反応して勢いよくレイスが振り向いた。目を丸く見開き穴が開くほど女を見ている。

「バカ!見るな!!」

女は怒鳴ると浴室から立ち去った。

「ふふ、良いもの見たなあ」

レイスは満足げに笑うとお湯の溜まった湯船に浸かる。足を上げて壁にもたれかけ肩までゆったりと湯に浸かった。筋肉の疲労が湯に溶けほのかな幸福感が全身を伝う。レイスはしばし至福の時を過ごした。

「セックスとかも頼んだらヤらせてくれるかな」

酷く不純なつぶやきが浴室に反響した。 

 

 

レイスとフィリップの生活 プロローグ

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汚れた空気、鉄錆びた工場。

醜悪な場所から逃れ暗闇をひたすら歩き、唯一安らげるその入り口にいたのは真っ黒な怪物だった。

 

僕は問う。

 

「お前は誰だ」

 

奴は言う。

 

「僕はお前だ」

 

それが僕とあいつの出会いだった。

ひどくつまらない僕と怪物の劣悪で邪悪な日常の物語。

 

***

 

その日は最悪だった。何が最悪かといえば答えは一つだけだろう。彼にとって世界の大半を占めているのは仕事のことだ。

労働者フィリップは職場の先輩に酷く怒鳴られ怒られた。たったそれだけのことが鉛を飲み込んだかのように彼の胃袋を捕らえている。

「会社に行きたくないな……」

フィリップは会社から自宅までの帰路、電灯の明かりがちらちらと周囲を照らす闇の中でつぶやいた。呟きは生ぬるい空気に溶け込み消えた。

フィリップは優れた経営手腕を持つアザロブが所有する廃車工場に勤めている。廃車工場には数多くの廃車が運ばれていたが中には車の修理なども請け負っていた。

アザロブは奇抜な発想と迅速な行動力、そして天性の才能で次々とビジネスを展開し成功させてきた。その才覚ある男に見初められフィリップは廃車工場で働いている。初めはとても嬉しかった。だが今は……。

 

フィリップの仕事は単純だ。運ばれてきた廃車を潰してスクラップに変える。そんな単純作業を繰り返す廃車工場の社員……のはずが現実では雑用係だった。まともに勉学も受けられないような腐った田舎町からはるばる赴いた彼には車の知識など全く無く重機の操作すらままならない。かといって事務仕事ができるかといえば計算もやたらと遅く要領も悪かった。彼に与えられた仕事は整備士であったが、実情は粗暴な先輩達の雑用係だった。毎日怒鳴られながらフィリップは働いている。

頼みのアザロブは早々にフィリップに飽きて先輩同様、辛辣に当たるようになってしまった。フィリップの一日は朝の出勤で高級車を運転するアザロブに見下され蔑まれるところからはじまる。どうやらこの二人、根本的に相性が悪いらしい。最近ではコスト削減に伴うリストラの話も耳にするようになった。

「僕……ヤバいのかな」

再就職の難しさは彼自身が良く知っていた。まだ20代前半の彼ですらこの小さくみすぼらしい工場しか働き先がなかった。会社を辞めて新しい職場を探す。それまでの面倒さを考えると億劫でしかない。フィリップはもう何度ついたか分からないため息を再び吐き。自身が住む古びたアパートの前で立ち止まった。白いコンクリートで作られた無機質な建物が目の前にある。

幸運にも工場は8時間の労働時間と週休二日はきちんと守っている。今日家に帰れば二日だけは静かな休息を迎えることができる。

……それを過ぎたら?

そこまで考えてフィリップは首を振った。とにかく”今日”はなんとかなったのだ。その後のことは帰ってから考えれば良い。

フィリップは建物に入ると廊下を通り階段を上がった。かつかつと無機質な音が屋内にこだまする。小さい蛍光灯の黄色い光がほのかに照らす寂れた通路をゆっくりとした足取りで歩く。単一的な足音とともにそれは姿を見せてきた。フィリップにとってもっとも馴染みのある景色。それは他者から見れば他と同じだが毎日、同じ通路を歩いているフィリップにとっては特別で心癒される城への入り口だ。自然と心も軽くなる。そしてフィリップは立ち止まった。その入り口に何かが"い"た。

体の表面を奇妙な嫌悪感が撫でた。いうなればそれは不吉以外何者でもない。フィリップは自分の城である自宅の扉の前にいるそれを見、棒立ちになっていた。

 

漆黒の怪物。

 

それが自室の扉にもたれ座り込んでいた。身長はフィリップよりもずっと大きく、腕は筋肉質で隆々としていた。反面足は細くアンバランスだ。

その見た目が異様だったのは全身真っ黒で木の肌のように皮膚がガサガサだったからだろう。加えて頭からは奇妙な泥か粘土のようなマスクを被っており、服もボロボロの外套を羽織っていた。下半身は包帯をきつく巻いており奇妙かつ異形の姿だ。紛れも無い怪物。

「…………っ」

フィリップは絶句する。漫画の世界であればダークヒーローとして存在していてもおかしくはないが、これは現実だ。そして何よりもこの怪物をどかさなければ部屋には入れない。

フィリップは気配を殺して化け物に近づいた。近くでその顔を見る。どこか翳りがあり自分に似ている気がする。最も嫌なのは自分がこの怪物に親近感を覚え始めていることだ。こんな化け物に、自分が似ている。その考えが頭を支配しそれに対する嫌悪感で怒りが助長される。その繰り返しだった。

普通なら警察を呼ぶところだろう。だがこの化け物が警察に捕まり投獄されることは酷く嫌だった。なぜだか自分自身が牢屋に閉じ込められる錯覚が頭をよぎった。なんとしてもこの化け物を隠し、誰にも見られないように隠蔽しなければ。

「おい、起きろよ」

やっとの思いでフィリップはそう口にした。目の前の怪物はぴくりと反応するとやがてゆっくりと顔を上げた。

「お前は誰だ」

フィリップは問う。心臓がぎりぎりと痛んだ。湧き上がるのは恐怖ではなく怒り。

「僕はお前だ」

怪物は鸚鵡返しのように言う。その瞬間フィリップが維持していた心の均衡が破裂した。

「ふざけるな!!お前のような怪物が僕なわけないだろ!寝言は寝てから言えよ」

「嘘じゃない。僕はお前だ」

怪物は怒る様子も無く淡々と応えた。

「僕は、お前が人殺しになった世界からきた」

「…………っ」

その瞬間、フィリップは泣きそうになった。胸が張り裂けんばかりに鼓動する。認めたくなかった事実。人殺しとしての自分。彼が怪物から感じ取った親近感はそれだった。

過ちを犯した自分を非難することは自分自身を非難することと同じだった。その怪物を間違ったものと認めることは自分自身を否定することと同じだ。化け物を否定すれば、この化け物は本物の殺人鬼になるだろう。化け物は化け物たるして存在するのだ。そうでなければ本物の人殺しで大量殺戮者だ。その違いは罪を犯した者にとって大きかった。

残酷かつ非現実的な感情。フィリップは本能でそれを知っている。それは目の前の怪物を通じて一瞬でフィリップに伝わった。だから彼は認めなければいけない。殺人者であることを拒絶して化け物になることを選んだ自分を。

「信じられない。お前が僕だなんて」

その台詞はフィリップのせめてもの抵抗だった。

「証拠ならある」

化け物はそう言うと、腰につけたベルトバッグからとあるものを取り出した。先端が欠けた歪な車の鍵だった。それを見、フィリップの心が凍りつく。これはフィリップが最も憎み、最も尊敬していた人物の所有するものだ。

「ボスの……キー」

フィリップの上司であるアザロブの車の鍵だった。他者から見れば何の変哲もないそれはフィリップからすれば化け物が自分自身を証明するのに値する決定的な証拠だった。デスクに置かれたボスの鍵を見るたびに彼は一抹の夢と理想と嫉妬を思い起こした。ボスの持つ高級車はフィリップにとって理想であり、同時に嫌悪の対象であったのだ。狂おしいほどに憧れ、苦しいほどに妬んだ雪辱の日々。上司が高級車を運転するたびにフィリップは憎悪と憧れを胸にしていた。否応無く突きつけられる才覚の違い。アザロブはフィリップに無いものを全て持っている。金も女も地位も。

「僕は、上司を殺した」

化け物は語る。

「この手で滅茶苦茶にした。これはその、証拠だ。僕が奴を殺した……証拠」

フィリップは震える足で化け物ににじり寄るとがくりと膝をついた。そして震える手で怪物の首に手をかける。そして泥でできたマスクをゆっくりと引き上げた。

銀髪の男。顔は自分自身そのものだった。まるで鏡を見ているような錯覚。だがそれは紛れもない自分自身であった。

「嘘だ、嘘だ嘘だ」

フィリップは立ち上がると後ずさりながら首をふる。

「嘘じゃない。僕は異世界からきた。正確に言うと追放されたんだ。ご丁寧に人としての心や記憶まで元通りにして。僕が苦しんでいるのをあの人は楽しんでる」

「人殺しが僕に何の用なんだよ!僕はお前なんか知らない!」

「僕は戻ってきただけだ!自分の家に」

「ここは僕の家だ!」

フィリップは堰を切ったように怒鳴った。暗い廊下にフィリップの声が反響する。隣の部屋からがたりと音がした。そこで二人は事態がまずい方向に進んでいることを知った。

「と、とりあえず中に入れよ。兄弟!」

フィリップはわざとらしく大声でそう言う。

怪物は立ち上がりフィリップに場所を譲る。フィリップは鍵を取り出すと焦りながら扉を開けた。安息の空間への扉が開かれ生活臭が充満した室内に入り怪物を招き入れる。怪物は元から自分の家だったかのように部屋に足を踏み入れた。

フィリップは扉を閉め、厳重に鍵をかける。普段使わないチェーンまでかけた。そして目の前の怪物に向き直った。

「あ!!」

そして咄嗟に怪物の腕をつかんだ。

「なんだよ」

「ふざけるな!そんな汚い格好で僕の部屋を歩くな!!風呂に入れよ!!」

フィリップは怒鳴る。怪物はマスク越しにあからさまに嫌そうな顔をした。

「ヤダ!お風呂嫌い!」

「ふざけるな!絶対風呂にいれるからな!」

「ヤダヤダヤダ!」

嫌がる怪物の腕を引っ張り風呂場まで連れて行く。シャワーの湯を出すとシャワー室を目の前でぼうっと突っ立っている怪物の腰を思い切り蹴飛ばした。

「ギャアッ!」

獣のような悲鳴を上げてシャワーのお湯に突っ込む怪物。フィリップは冷酷にそれを見下している。

「大人なんだから風呂ぐらい一人で入れよ!僕の手を煩わせるな」

怪物は床に手をつき頭からシャワーの湯を被りながらうらめし気にフィリップを見た。

「ほら!石鹸ならそこにあるだろ!?」

怪物が顔を上げると石鹸を置く台座があり壁に貼り付けられていた。そこに白い塊が乗っている。怪物はそれをただ見つめていた。

「くっそ、めんどくせえな」

フィリップは悪態をつくとスポンジを片手に石鹸に手を伸ばした。そしてそれを泡立てると酷く乱雑に怪物の頭をこすった。

「ぎゃああ!やめてやめて!ハゲる!」

「勝手にハゲろ!」

若干引き気味で片手だけで乱暴に怪物をこするフィリップ。怪物は目をつぶってそれに耐えていた。

「ここまですれば大丈夫だろ、あとは勝手にしろよ」

フィリップはあらかた怪物を磨いてからそう言うとシャワーを化け物にかけてから浴室の扉を閉めた。怪物の泥のマスクは剥がれて水に溶け落ち服はびしょ濡れだ。だが汚れは確かに取れて幾分かマシになっていた。

「ここにタオルおいて置くからな、ちゃんと綺麗に拭いてから上がれよ」

浴室の扉越しに酷くぶっきらぼうな声が響いた。怪物は体中の泡を落とすと着衣を脱ぎその場に畳んだ。タオルを手にすると体についた水分を拭い取った。